昭和47年02月14日 朝の御理解
御理解 第41節」
「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい。」
わが心からも練り出すと。仕事が仕事を教えると云う事を言われます。仕事が仕事を教える。信心をさして頂いておりますと、信心が信心を教え、解らしてくれる。それで例えば金光様の御信心が永く続いておると云う意味ではなくてね、いわゆる話を聞いて巧者になる。言うなら耳だけが肥えると云う様なそれは信心ではない。信心とは何処までも信ずる心、いわゆる又は真の信心と言うても良い。
いわゆる真の信心を目指させてもらうと云う事。真の信心を頂かして下さい、分からせて下さいと願う信心を私は信心というのだとこう思います。ですけど例えば仕事が仕事を教えるというても、もっと依り良い仕事を覚えたい、体得したいと言う願いを持っておる人でなからなければ、言うならば良い仕事、仕事が仕事を教えると云う事は出来ません。
只それを生活というかね、食べる事と言うか、食べる事の為に、只その仕事を只続けておると言うだけ。そう云う例えば仕事のし振りでは、仕事が仕事を教えると云う様な事はありません。勿論、いわゆる研究心、依り良い仕事を覚えたい。何時もそういう願いと云う物を心に持って、それを只話を聞くだけではない、自分の心からも練り出して行こうとする、いわゆる研究しようとする精進。
そういう精進が出来てこそ、あってこそ初めて私は和賀心から練り出す事が出来ると思う。和賀心から練り出すが良い。只信心しておりますと云うだけの信心がですね、何十年続いても、それでお話を聞きますから、いわゆる詳しくはなるけれども、和賀心から練り出す程の、練り出すと云う事は、信心を練り出す事はおかげを練り出すと云う事と同じですからね。徳を練り出すのと同じ事ですから。
ですからおかげも徳も受けられない様な信心であるとするなら、それはちょっとおかしい。本当に考えて信心はどの様に目指しておるか、頂こうと意欲しておるかと云う事になります。ですから成程話もやはり聞かなければならない。おかげを頂いた人達の話を聞かなければならん。それが信心共励と云う事に迄なって来る。此処に沢山な共励会もいくらもあります。そういう会に出席するだけではない自分の家でも共励をする。
昨日久留米の佐田さん、若奥さんがお届けしておられましたがね。十三日会に参って見えてから、昨日の朝の御祈念にこちらに御用がありましたから、一歩遅れてから帰った。そしたらもうお祖母ちゃんと主人と二人でもう、それこそ一生懸命に、それこそ燃えておる。今朝の御理解の素晴らしい事。お祖母ちゃんあんたはどう頂くか、私はこう思うと、一生懸命に共励があっておるのに、奥さんが帰られたもんですから、もうその燃えてるものが移ってしもうた。
油に火が入った様な物である。もうそれこそ夫婦親子三人でです、もう感動しながら、信心の共励をさしてもろうたと、言うておられますが、ですから親子でも兄弟でも家族中で、信心の共励の場が持てれる様な、おかげを頂かねばなりません。いわゆる錬り出そうと。より本当な物、よりおかげを頂かせて頂く為に、いわゆる和賀心からも練り出すが良い。錬り出されて来るのです。どうでしょうか、夫婦で共励が出来ておるでしょうか。親子で共励出来ておるでしょうか。
やはりそれには佐田さんじゃないけれども、主人と母がもう燃えておる。その中に入らせて頂くのですから、こちらが油の様な物を何時も持っておる物ですから、それがぱっと飛んで来る火の様に、親子夫婦三人でそれこそ燃え切らんばかりに、信心の共励をさして頂いてそしてこの、十三日会に出席させて頂いたと、こう云うておられます。練らなければいけん。いかになら佐田さん一家がですね、本当により良い本当の信心とはという物を一家中が願っておられ、求めておられるかと云う事をそこから感じます。
仕事でももそうです、より良い仕事をさしてもらおうという、心がなからねば練り出す事は出来ません。いかに仕事が仕事を教えると言うても。例えばお百姓ならお百姓でもです、只もう親の跡を継いでお百姓しておる。只百姓してさえおりゃーば食い外しはなかと云う様な百姓であったならです、良い米を作り出す事も、良い野菜を作る事も、立派に作り出す事も出来ません。そこに研究があり、より立派なものをと願う。そう云う仕事振りからしか、仕事が仕事を教える事はなりません様に、信心も同じ事であります。
私の信心を振り返って見ますと、まあ何と言うても終戦、そして引き上げ、そこから何十年間という信心の、言うなら基礎が出来ておった訳でありませんけど、只続いておったという信心。だからそういう何十年間の信心と云う物は一つも練り出されてはおらん。只おかげを頂くから参りよった。教えを頂いているけど、耳だけは肥えておるけれども、教えを守ろうとか行じようとかしてなかった。
私は本当に思いますよ、御広前金光様が仰っておられます様に、「自分の庭の口を掃かせてもらうと云う事は、世界の一部が清まっておるんだと言う心になれ」と仰っております。それにどうですか、庭の口を掃かせて頂きょうるけども、自分の所さえ都合のよか、他所の迷惑なんか一つも考えない生き方では、おかげの頂ける事は絶対にないです。教えを守ろうと、おかげを絶対受けられんと言うのは、いわゆる今日私が申します、練り出す様な信心のお陰が頂けないのです。人の迷惑なんか全然考えん。
自分の信心を振り返って考えて見ますと、まあ言うならその様な信心だったと思います。もう兎に角商売人ですから、儲け出しさえすりゃー良い。そして儲け出してからどんどんお供えが出来けて、大きな御用さえ出来ればそれでよい。云うならばどんな悪辣なと言うちゃーおかしいですけれども、やっぱり悪辣な商売ですね。信心から云うなら、儲けさえすれば良いという、算盤高い商売ばかりして来た。成程お願いをしておかげを頂いて来た。そして何十年間のそう言う信心がです。
初めて終戦、裸で引き上げて帰って来んならん事になって初めて目が覚めた。今まで何十年間の信心と云うのが、全然ただ巧者になっておったと云う事だけで、和賀心から練り出す様な信心が全然出来てなかった。初めて気が付かせて頂いて信心に、言うなら本当の信心の目が開いたと云う事である。だから今までの信心ではいけなかった。だから是から言うなら本当の変わった信心をさしてもらわねばならない、その焦点の第一がです、裸で引き上げて帰った内地より両親がです。
もう本当に親に喜んでもらいたいとか、親に孝行したいばっかりだ、北支辺りまで言わば出稼ぎにやらして頂いたのに、もう惨めも惨めも、裸一貫で引き上げ、家族中の者がその時親子四人で御座いいました。愛子がまだお腹に入っている時に私達引き上げて帰って参りました。余りにも惨めな自分達の姿にです、今迄の信心が本当に相済まぬ信心であったと気付かせて頂いてです。
まあ自分達はどんなに難儀してもです両親にだけは、是から例えば惨めな生き方をさせると云う事は、もう愈々忍びないと言うのが、今までの信心ではいけないと言うその第一番に着眼が、親に喜んでもらいたいと云う事であった。それですから親孝行が出来て、親に存分の親孝行が出来たら、もう親が死んだらもうその翌日から、貧乏なら貧乏になってもいい苦労なら苦労になっても良い、是は私の実感です願いとして。
そして今までの信心ではいけなかったのであるから、もっとましな、言わば本当の信心を目指して、其処から親孝行したいばっかりの焦点ですけども、今までの信心を投げ捨てて、それこそ回れ右する様な信心になって来た訳です。その時からもう兎に角、今まで私と云う物は食べる資格もなければ、着る資格もない。そんな考え方から、着る事も例えば夏も冬も一着で、夏服一着で過ごさせて頂いた。
食べる資格も無いものと分からせて頂けば頂く程、食べる資格はないのだけれどもというて生きる事に、食が無しではいけませんから、皆さんがこの頃修行明けに此処で毎年頂きます茶粥です。あんなに美味しいまたは濃い茶粥ではありません。薄い茶粥です茶粥をあのあん時頂いた様なあの程度の丼一杯ずつ毎日頂かして頂くと云う様な、食べる資格が無いのですから。そして自分の願いが成就することを願ったわけです。
親に本当に満足してもらえるとか、喜んでもらえる、おかげを頂きたいと云う事がもう一途でした。そういう、信心の修行と願いと云う物がです、そこに願いを置いて、信心さして頂いておる内にです、私の信心が成長、練り出してきた。色々とお話を聞く度に分かって来た。其処から私が、もうその次には、親教会以外にはなかった。親先生以外には無かった。その当時は、もうそれこそ、信者の見本の様に、あちらこちらで、随分もてはやされた物でした。
所が段々、今度分からせて頂いたら、今度はもっと素晴らしい親がある事に気が付いて来た。少しいわゆる高尚になって、本部金光教、いわゆる教団自体が言うならば心配になったり気になったりして来た。金光道という道がある。天地に繋がる道があると云われるのに、その道を通うて来る所の、言わばおかげの貧弱さというかね、に気が付かせて頂いて、それも金光道そのものがですその道そのものがです、是は道修繕がいるなと言った様な事が感じられる様になって来た。
もういよいよ修行に熱が入って参りました。そしてなら親の方を、親教会を放ったらかしたと言う意味じゃありません。桂先生の、初代の御教えの中に、「親に不孝をして、神に孝行をし、そして後に、親に孝行をする氏子がある。親に孝行をして、神に不孝をして、親に不孝をする氏子がある」と言った様な御教えを実感として感ずる時代でした。親も言うた。また親先生も仰った。けれどももう、私にはもうそれよりももっと上の、親であると言う心から、私の信心は非常にこうある意味で。
異端視される様な時代になって来た。そして現在に至っておる。現在はどうかと言うと、教団の事等考えておらんと言う訳じゃないけれども、もっともっと素晴らしい大きな親、それは天地である。天地の親に云うなら喜んでもらいたいと云う様な信心になって来た。それだから親にも、親教会にも、または御本部にも御無礼しとるかというと、決してそうではない。例えば御本部なら御本部に、御造営なら御造営が始まれば、それこそ私はいち早く、もうあるだけのお金を献納させてもらいました。
それからでも同じであります。と云う様にです、教団の事がどうと云う事ではない、それはもう親だから当然の事。親教会に何かという時には、私は本当にその事に専念さしてもらいます。確かにです、言うならば現在私が、天地の親神様、天地に対する所の願いというか、その神様の願いに、応えに立たせて頂こうと云う様な信心にならして頂いたら、言うならば生みの親にでも、教えの親にでも、または兄弟である所の御本部にでもですやはり、猛々しそうでもありますけども。
親孝行と言う言葉である件に致しましても、今まで出来なかった様な御用でも出来る様になっておる。ですから皆さん、これはどう云う事か、今日の御理解で言うと、私の信心がです、段々練り出されて来て、来たと云う事なんですよ。いわゆる天地の親神様への孝養と言うか、その為には天地の親神様の心が分からにゃいかん。天地の心が分からにゃいけん。そこで天地の心知りたしとの一念に燃やさして頂いとる内にです。
天地の心が分かって来る。だからその天地の心に添わして頂く事に精進さして頂いておればです、それ以下の親にもやはり孝行が出来ると云う事。止むに止まれんと言うその心がです、親に孝行したい、喜んでもらいたいの一念がです、信心に又は修行に打ち込まれて行っておる内、段々おかげを頂いて参りまして、和賀心から練り出される所の親が、段々大きくなって来た。偉大になって来た。
その大きな親の中に肉親の親もあると云う事なのです。だからねお互いがです、そう云う様に自分の心から練り出されて来る所のより素晴らしい、より大きな信心がです練り出されて来ないとするなら、いかに私どもがいわゆる、只信心しとる只修行しとるだけで、仕事が仕事を教えてくれないなら、信心が信心を言わば教えてくれないなら、信心を求めておる心がないと、又は希薄だと思わなければなりません。
神は天地の守じゃから離れる事は出来ん、けれども神様は離れる事が出来ん、離れる事は出来なさらんにしても、こちらの心が離しておる。神様と共にあるという、そこに実感もない神様であっては、離れる事は出来んと仰る神様でも、如何ともし難いことになって来る。 神様のおかげを表わす事が出来ん。和賀心からも練り出すが良い、まだまだ是からどれ程どれだけの事が、私の信心から練り出されるか分からん。
もうそれこそ夢は世界中を駆け回っておる。世界中どころではない、神様の世界も、霊の世界も私の心は、駆け回っておる。昨日ここに最後にお礼に出て参りました時に、和賀心時代を創ると言う様な事を一生懸命申しております。世界中の人間が和賀心を目指さしてもらうと言う様なおかげを頂かなければ、人間の本当の幸福はあり得ないんだと。もう是に絞る以外にはないんだと言った様な思いを強うさせて頂いて、昨夜まではそう思っておった。所がね、それではまだ足りない。
まだそれは甘い思い方が。と言うて色々まぁ皆さん、和賀心時代を創ると云う事だけでもまだ、お互いよろよろしとる位ですから、次の事を申し上げてなんですからまあ、是は私だけがが頂いた事ですから。はあぁ成程成程と思わして頂く事が幾らもあるとですまだ。けども先ず私共がです、その和賀心時代を創るという一つの言わば、天地の願いである所の運動に参画させて頂いておかげを頂かんならんので御座いますが。
『私は今朝方、こう言う様なお夢を頂いた。椛目の妹の夢です。妹と娘の泰子と二人で、沢山のしこ、えらい大きなバナナの、まだ青みがかった様なバナナを沢山一つ一つを包装して、それにのしをかけておる。こちらの方にはサンダルですね、下駄、履物、サンダルを沢山買うて来た。それにまた一々包装して、それにのしをかけておる。「こげんどこに何をするとの」と言うたら、「泰子の近頃の結婚式の時にお返しをしてないから、お返しをしようとこう思う」と言うのです。
皆さん、バナナやらそのう、こげなサンダルやらばやと云ったら、ハイとこう云う訳です。それから今度又、夢が飛躍して、こんだは全然違った場面で、広い田圃に、そうですね、地上二尺ぐらいに出て、もうそれが丁度それが、一つ一つが何かあのう。御観音様か御地蔵様か何かこうお祀りしてある。ほこらの様な感じの、二尺ばかり出たのがずうっとある。その底には、まあ云うなら、マンホールの様になっておって、沢山な肥が中に入れてあると云う事が夢の中で分かるんですよね。
まあ何と念の入った、そのう肥を蓄えてあると言う訳でしょうかね、という、もうそれこそ、判じもんなら判じも、出来るんだけれども、是ばっかりは全然意味が分からなかった。夢が覚めてから、どう言う意味なのか、バナナとサンダルを、娘の結婚式の時に、皆さんから沢山お祝いを頂いておる。それに対する所の、お返しをバナナとサンダルでしようとしておる。
沢山な肥やしが蓄えておる沢山の肥料、それで今朝から私は和賀心から練り出すがよいと言うこの第四十一節の御理解を頂いてです、ありゃ今朝から頂いた夢はどう云う事であったろうかと思わせて頂いとったら、信心は根を肥やせと云う事を頂いた御理解が御座いますよね。とかく信心は根を肥やせと。そのやっぱり信心は根を肥やせと頂いた。どう言う様な事が根を肥やす事であろうかと。そして私は昨日、高橋さんと茂さんでしたか、椛目の方を今度改造いたしましたから、その大工さんへの支払いが。
昨日確かして頂きました。そしたら池尻さんが言いよんなさいますち、今度家具を買わせて頂いた。だから是はまあ親方として何も妹に、戦時中の事ではあるし、何もしてやってないから、家具だけ買わせて頂こうと言うて、私自身が実際に見て来て、そして私がそれを買い整えさして頂いておる訳で御座いますけども、それを高橋さんにか茂さんにか、妹が昨日言うたという。「本当に今度結婚式では沢山でしたけれども、私ども親子が本当にその為にぼちぼち貯めておったお金で。
どうやらこうやら間に合いました」とこう言う。丁度この家具のお金を、丁度デパートから集金に来とりましたから、それを払うあれだけは「折角兄さんから買うて頂いたんだけれども、あのお金だけが丁度余ったから払わせて頂きたい」とこう言う「そうげな事なら、そりゃあなた、私は兄さんか、それこそ親先生から払ろうて貰うて良かじゃんの」と申しましたけど「いやどうしても払わして頂きたい」と言いよると。ああそうですかと。うちは今お金いくらあったちゃ足らんからそれはそれで良いと。
余っとるなら、と私は思うとりまして。その前の日に妹が参りまして、裏の方へ来てから言うておる事です「今度の結婚式に皆さんに色々沢山頂いたけれども、お返しを何もしとらんから、お返しの意味でです、心に思わせて頂いておる、御造営費とそのお返しの費用を、そのまま御造営のお供えさして頂きたいと思いよりますと言うから」「それはよか考えだね」と私は申しておりました。
まだお供えしとる訳じゃないけれども、一昨日は、いわゆる昨日の晩は私はそれを高橋さんと茂さんからその事を聞かせて頂いた。それこれを合わせての例えばお供えをさせて頂くだろうと思うのです。ですからはあはぁ是は其の事だなと私は思うたんです。是は私は何時も妹の事を言うて馬鹿のごと誉めますから、皆から笑われますけども、もう兎に角その甘えないと言う事ですよね妹は。
そして是は誰も知らぬ内に、言うならば徳積みをしておると云う事です。例えばこう言うの事は発表して話やらする事ではないけれども、昨夜頂いたお夢の事がです、ははあ是は信心を本当に求めておる人達に、一つ是はお話させて頂かにゃいかんなと私は思うたんです。バナナやら履物やらをです、例えばお祝いのお返しにさして頂くと云う事は、何時もそれこそ、何時も身の皮を剥いでままになると云う事なのです。
バナナと云う事は、それこそもう本当に身の皮を剥ぐ様にしてです、おかげを頂いておるということです。何時も何と言ったって、女の働きですから大した事はありません。それでも、やはり日々の例えばお供えならお供えの中にです、両親の健康のお礼というのが、必ず毎日あります。ですから是は私は、今日は妹自慢じゃなくてです、信心とはそういうものなのだと。信心は根を肥やせ。
根を肥やしておればひとりでにものが出来る様な物ということを私は思い至った時にです、成程今こそ妹のところにです、すべてのおかげの幸の元がです、ひとりでに出来ておる事実を目のあたりに私が見ておる訳です。成程ひとりでに、自分が願いもせんのにあのように立派な着物が沢山頂けた。願いもせんのにあれだけ家具が立派に揃うた。願いもせんのに住まわせて頂く家が立派になった。
それこそ、願うてもないそれこそ、それこそもう三国一の婿殿を養子に迎えることが出来た。成程ひとりでにものが出来ておるということなんです。私は是だけは私共が真似しなきゃーおかしいですね肉親の妹のことをこんな風に言うちゃ。けど皆さんにおかげ頂いてもらわにゃならんから言いよるとですばい、ね。決して親方がいくら儲けでたからと言うて、親方に腰掛けとらん。甘えていない。
いよいよ足らんなんという時には、借らせてもらわんならんというて、茂さんにお願いしてから、お金は借りてあった。けれどもそれはおかげでそのまま手を付けずにおかげを頂いて、なら家具も兄さんから買うてやると言いなさったけれども、それだけは余ったから是れはお返しするとそう言っておる。成程、ひとりでにものが出来る様なというのを、今の私の妹の家にまあ、あの程度のことであるけれども、願わんでも頼まんでもひとりでにものが出来ておる。
いわゆるひとりでにすべてのことが有難い方へ有難い方へと展開していっておるということ。これは私は、私の信心を手本にしろ、妹の信心を手本にしろ。まるきり、おかしいですけど、おかしいと思わずにどうぞ聞いて下さい。バナナということはそれこそ身の皮を剥いでもというでしょう。サンダルということは自分の足許をいつも見極めておるということでしょう。言うなら信心以上のものを求めない。自分の徳以上のものを求めない。いやそれではなくてです。
それこそこれは私よりも勝っておるです。陰で人を助けるというか、陰で徳を積むといったような事は。私はもうそれが後から分かってきてから、驚く事があるです。それが例えば沢山なお社ろ造りの感じの、畑の中に沢山な肥が蓄めてあるというのは、このことだろうと思うた。信心は根を肥やせと仰るが、成程根とは心のことである。心をいよいよ肥やして行くことのために、根とは先祖のことである。先祖の霊が喜べるように、根とはどこか、根とは天地である。
いよいよ天地の心を心としてです、天地の心に添わせて頂こうとする願いに燃え立ってのところから、根はいよいよ肥えてくる。なるほどひとりでにものが出来るようなものぞと仰るようなおかげになってくる。そういう信心がです、練り出されて来るということなのです。自分に要らぬものは人にあげますけど、自分に要るものは絶対やらんという人がありましょうが。
えらぁい人にどんどんやり好きの人じゃばってん、もう自分がいらんごとなったけんやりござるとじゃん。もう汚い汚い。そんならもうやらん方が良い。もう自分がいらんごとなったけんやるてんなんてんということがあるものか。それこそ身の皮を剥いででも、私はそれが根を肥やすことの為になるならば、神様が喜んで下さることのためならば、根を肥やすことのためならばです、それがなされて行くような信心を身に付けて行きたい。そういう信心を願いたい。
そんならそこでです、これはもう自ずと仕事が仕事を教えてくれるように、信心が信心を教えてくれる。私がもう親もなからなければ親教会もない、金光教という教団もない、もうただ天地の親神様への孝行一途、天地の心を分からせて頂いて、その天地の心にならせて頂た、その天地の心に添わせて頂くということに一生懸命になったら、他の親は皆抹殺されるかというと、そうでは無くてです。
教団のためにも働きが出来るようになり、親教会のためにも、または肉親の親のためにもですね、喜んでもらえるようなおかげが頂けるということ。練り出されて行くならば、それがもっと豊かな、もっと大きな、もっとより本当なものに私は願いが掛けられるところの、一足飛びには出来ません。それを本当に自分の心から練り出して行くものでなければ本当に身には付かん。ということを今日は皆さんに聞いて頂きました。
まあ本当に相済まんお話でございましたけれども、お夢に頂いたことでもございますし、今日ここで頂きます、信心は根を肥やせということを頂いて、頂いたそのお夢と、まあ妹の、なら妹のことが決して完璧ということではなからなければ、本当にということでもないのですけどもです。しかしそういう意味での一つの行者とでも申しましようか、お道の信心をいわゆる信奉しておる、らしい行き方をです、本気でさせて頂こうと。出来ておらん、けれどさせてもらおうという願いを持っておる。
だから自分の心から練り出されてくるものがです、本当なことへ本当なことへと進展して行っとる。そしてそこには何かというと、確かにそういう信心にはです、ものがひとりでに出来る様な物という、もうひとりでに出来てくるという、もう本当に娘が結婚、結婚なら着物が一枚欲しかばってん、家もあげんしてもらいたいばってん、家具の一ちょ買うてやりたいばってん、買うてやりきらん。恨み話ばっかりして、そういうことが全然さらさらなかったです、私の妹は。
そして例えば御神酒なんかやりますと、ちゃんと例えばそれに対する御初穂が包んじゃるです。まあ本当に言うちゃならないことばかり申しましたけれども、甘えないです決して。そしてそんなら自分を犠牲に、犠牲にするというとおかしいですけど、自分の身の皮を剥ぐということには、それこそ、それを喜んでさせて頂いとる模様です。けれどもそこには神様が決して見逃しはなさっておられん。見逃して、見溢しはなってない。成程ひとりでにものが出来ておるようなおかげがこれからも頂けてくるでしょう。
けれども、どの一事を思いましても、成程願いもせんのにひとりでにものが出来ておる様なおかげが頂いておるということがです、ね。やはり日頃のいわゆる信心、いわゆる根を肥やすさしていただいておると自分で思うてやっておることではないでしょうけれども、根が肥えてくるところから、ひとりでにものが出来てくるようなおかげが受けられたと思うのでございます。話を聞くばかりが能ではない。もう本当に私は思うです。昨日私は、特別奉修員の方達に申しました。本当におかげが受けられる。
それこそ自分の胸に手を置いて、本気で自分の胸に手を置いて、ようと考えてみて下さいと。甘えとる。足元を見よらん。それこそ神様が喜んで下さることなら、身の皮を剥いででもというものが少ない。そげなことどころじゃない。それこそ日頃教えを頂いておりながら、自分の家の前を掃かして頂くことは世界の一部が清まることだと思うてと仰っておるのに、自分とこのそれが世界中に繋がると頂いておりながら。
自分のところだけはきれいにしてから、よそにそれが毒になろうが邪魔になろうが、それで人が怪我をしようが、平気でやるようではおかげを頂ける事は絶対ないです。本当にそこが分かって頂きたい信心させて頂くなら。昨日もある御信者さんからお届けがあった。私の村の村中に毎日参りなさる人の事のお届けがあった。此の頃から村のある問題が起こった時に、それこそ赤面弁慶になって言わっしゃった事がです。
評判になってそうにゃ合楽の金光様に参りよったばってんのとその方が聞いて、本当にこれは人事じゃありません。私もそうですけれどもあの方がおかげを頂かれる様に、私もおかげが頂けれる様に「もう私は合楽の金光様の悪口を言われると、自分のことを悪口言われておるように思う」と言うておられました。自分の周囲にそういうことがありょりゃせんでしょうか。信心しとってこげな事を平気でやると言う事がありゃせんでしょうか。もう許されない事を平気でしとる事は無いでしょうか。
例えばですよ、ひもじい時に食べてはならんとか、したい時にしてはならんと言う事じゃないです。しちゃ出来んでもです、食べちゃならんでもです、人間は讎しいから食べることがある。そういうことならね神様は許されんはずはないです。けれどもこれだけは許されんと言う事があるのです。なら今申します、自分の目の前だけは綺麗にして、他所の方へ掃きやる様な事は、これは許されないです。信心さして頂きよってから、人の迷惑なんか考えないような事では許されないです。
食べ過ぎたとか、し過ぎたくらいな事は問題じゃないです。信心しておってから何ですか、そういうようなことを平気でするようなことであっては、絶対おかげ受けられん。金光様の御信心は、だからそれとは反対にです、人の前でも掃かせて頂くような心持ちにならせて頂いてこそ初めて、私は根を肥やして行くことが出来ると思うのです。そしてどうぞ皆さん、願わんでも頼まんでも、ひとりでにものが出来て来るようなおかげを頂いて頂きたいと思いますねですね。
どうぞ。